星空に触れて-75-

講義を終えて、今日こそはフロートへ向かった。
店には何人かの客がいて、カウンターにはハンチングさんとポールさんがいつものように座っている。

「そういや槙ちゃん。タダのお返しは旨かったかい?」
好奇心旺盛なハンチングさんが聞いてくる。

「あぁ、ハンサムの彼ですね」
ポールさんも気になっているようだ。

美味しかったかと言われれば、料理は確かに美味しかった。
あの日は浮いたり沈んだり、今までの人生の中でも大変な一日だった。
できればもう思い出したくはない。

「料理は美味しかったです。タイ料理でした。海が見えるところで、いいお店でしたよ」
さらさらと答えて仕事に戻る。

「いいなぁ、オシャレだね。しかしこの歳になると量は食えないからね、残念」
ハンチングさんはコーヒーを一口啜った。

「そうなんですよね。外食なんか行くと、美味しそうでも残さないといけないんですよね」
ポールさんも相槌をうつ。

二人はさらに盛り上がって、そのうち黒田も加わって賑やかになった。

こうやってカウンターの中から店の様子を見ながら仕事をするのは楽しい。
顔なじみの客の近況を聞かされて一喜一憂した毎日を思い出す。
それは上総の日課だった。

そうやって野崎とも知り合った。


オフィスから逃げるように飛び出して別れて、あれから一度も会っていない。

あの笑顔が頭に浮かぶと、何をしていても体の動きがぴったり止まる。
今、目の前で見つめられているような錯覚を起こして、
名前を呼んでしまいそうになるのを何度も押し留めた。

広い胸に抱き留められて、優しく髪を撫でられる心地よさが蘇ってくるのを、
手のひらを握りしめてやり過ごした。

そんなことを思い出しても苦しくなるだけなのに、思い出すのを止められない。
そうやって悲しくて惨めな思いでいっぱいになったころに、
決まってあの初めてのキスを思い出す。

大切にされている、と体中が勘違いした。
自分が野崎を想っているように、野崎も自分のこと想ってくれているのだと、
見事に浮かれあがってしまった。

野崎ほどの男なら、仕事も恋愛事もお手の物だろう。
恋に不慣れな上総を落すのは、造作も無かったはずだ。
こうやって苦しむ姿も、計算ずくだったのかもしれない。

悲しくて苦しくて悔しくて、とっても寂しい。
上総は出口のない思いに支配されながら、その日のバイトを終えた。


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