今夜、資料室で-42-

指先を濡らす涙が徐々に途絶えてきて、仁科は手のひらと甲を使って真島の目元をぬぐってやった。
そして静かに席を立つと、まだ肩の震えが残る真島の脇まで移動して腰を下ろした。
真島と同じ方向を向いたまま、仁科は独り言のようにつぶやく。

「甲斐に心底惚れてる、か・・・」
ゆっくりと体を傾けて両手で後ろ手をついて、仁科は真島の背中を見つめた。
「あの様子じゃぁ、甲斐も相当に君に参っている」
視界の端で真島の反応を伺いながら、仁科は静かに言葉を続ける。
「ひとたび君を手に入れて、『はいそうですか』 と簡単に手放せる人間など、この世には居ないだろうな」
スーツの中に秘められた生身の真島を暴き出すように、仁科は真島のそこらじゅうへ視線を這わせた。

人とは頼りなく脆い生き物。
『仕方なかった』 という言葉ひとつで、人間はどんな罪さえ冒せてしまうのだ。

仁科がこれまで相手にしてきた人間は、そういう奴らばかりだった。
そういう人間の不確かな気持ちなど、どうせいつかは冷めてしまうもの。
一生持続する想いなどありはしない。

「今は頭に血を昇らせれている甲斐も、時間が経てばやがては君を忘れる」
『特別』 などありはしないのだ。
どれほど真島が美しくても、どれほど甲斐が一途でも。
いつかは終わりが訪れる。
その時期を、自分が少し早めただけのこと。

「こんな偶然で居合わせてしまった不運だ。仕方がなかったんだよ」
何百人もの社員の首を切るとき、派閥争いで邪魔になった人間を無残な遣り方で貶めたとき。
それは、これまで幾度となく仁科が使ってきた言葉だった。
どうにもならない世の中を知っているからこそ、人は忘れることで生き永らえる。
そうやって多くの成功を手にしてきたのだ。

「恋だ愛だと、まさか君も一生言っているわけではないだろう?」
ましてや一時の熱に浮かされた恋心など、始まりの瞬間から終局へ向かって疾走していくもの。
「どんな始まり方でも恋になるというのに、終わり方など気にしてどうする?」
どうせ一時の熱に飲み込まれるのなら、特定の相手な作らず楽しむのが、一番合理的なのだ。

しかし、そんな冷めた仁科の観念も、真島という人間だけは全て洗い流してしまった。
───求め合う。
もしも真島が相手なら、千の感情が入り乱れる泥沼の深みでさえも、味わいつくしてみたいと思ってしまう。
少しだけ体を起こした仁科は、左手で真島の背中にツっ、と触れた。
真島の肩がピクっと揺れる。
「・・顔を、洗ってきます」
それまで一言も発しなかった真島は突然音もなく立ち上がって、早足で奥の方へ消えていった。





すっかり冷えた携帯を折れるほど握り締めて、甲斐は仁王立ちのまま唇をかみ締めていた。

真島は何も答えてはくれなかった。
その心は果てしなく遠くに、ぼんやりとしか感じられなかった。

それ以前に。
こんな大事に遭遇していたというのに、真島は助けさえ求めてはくれなかった。
毎夜毎朝一緒にいて、同じ場所で働いていて、いつでも連絡が付けられる二人だったのに、
自分のところへ連絡が入ったのは全てが終わりを迎えそうな事態になってからだった。
甲斐には、それらは全てが自分の不甲斐なさを露呈した結果に思えてならなかった。

「どうしてっ・・・」
真島の声を聞いた瞬間までは、一人で全て背負ってしまう真島の心を責めていた。
他の者が犠牲になる事を極端に嫌うために、真島はいつでも一人で背負い込む。
今は恋人同士になれたというのに、それでもまだ垣根が作られてしまうような存在なのだと感じてしまった。

「・・裕紀ッ」
しかし、そんな真島も本当に甲斐を頼れるなら、頼っていたかもしれないのだ。
・・全ては自分が、不甲斐ないから・・。

「絶対にっ・・・絶対に一人では逝かせないっ・・」
甲斐はギリギリと拳を握り締めた。
真島の苦しみは自分の苦しみ。真島の痛みは、自分の痛み。
心細い思いをさせたままで、絶対に真島を一人になどしてはおかない。
そう、心の中で繰り返した。
「絶対にっ・・・絶対にっ・・!」
頭の先まで血を昇らせて、沸々と爆発しそうな熱をたぎらせて、甲斐の脳が暴れるように動き出した。
何がどういう事態なのか、全てはまだ推測の域を出ない。
ただ、皆で調べていた事件の所為でとうとう真島は拘束されて、とてつもなく悪い状況になっていることだけは確かだった。

電話の主を洗い出す方法は無いか?
声の感じでは自分とほぼ同じくらいの年嵩で、妙に挑発的で落ち着いていた。
けれど例の事件に加担している人間となると、該当する人間が多すぎる。
仮に的確に絞込みができたとしても、そこから真島の居場所を突き止めて助け出す時間を差し引くと、
もう一秒の猶予もない。

懸命に思案を巡らせているところへ、唐突に甲斐の携帯が鳴り出した。

穂波・・・?

『もしもし』
『穂波ですっ・・あの、あのっ・・・真島さんは・・・っ』
余裕の無い切り出し方に僅かな糸口を感じ取った。
携帯を両手で握り締めて、甲斐は思わず前のめりになりながら声を張り上げた。
『真島君がどうしたっ?』
二人の焦りが重なり合って、受話器を行き来する息遣いが荒々しくなる。

『やっぱり何かっ・・!もっと早くに連絡しておけばっ・・』
『何だ、真島君がどうしたんだっ!』
穂波の悲壮な声に急かされるように、甲斐の鼓動が暴れ始めた。
下腹におもいきり力を込めて、微かに残る理性で息を整える。
『私、見てしまったんですっ・・真島さんが、梶原とっ・・・』
『何だってっ?!』
まさか二人が接触していたなど考えもしなかった甲斐は、穂波が言い終わる前に大声を出した。
『梶原がっ・・・、居てっ・・・!あの、っ・・・・・・』
穂波も混乱した様子で、それ以上はうまく言葉が続いて来なかった。
途端に静かになってしまった電話の向こうへ向かって、尚も甲斐は声を掛け続けた。
『どうしたんだ、何を見たっ?おい、どうしたんだっ!』

『水元ですっ!』
甲斐の焦りが頂点へ達しようとしたとき、突然 声の主が変わった。
『水元、君かっ?』
どうやら脇に居たらしい水元が、言葉の続かない穂波に変わって慌てて電話を代わった。
『今、甲斐さんの自宅へ向かってるところです!僕が連絡をもらって、マリさんも居ますからっ』
『それで、真島君はどうしたんだっ』
話の核心がなかなか得られないもどかしさに、甲斐は部屋の中をうろうろと歩き始めた。
『今マンションの下に着きましたっ、話はそれからっ』
そうして一方的に通話の切れた携帯を乱暴に閉じながら、甲斐は玄関まで走っていった。




「お待たせしました」
隣に腰を下ろした真島は、少しだけ目を潤ませながらもすっかり元の様子に戻っていた。
「構わないさ。元はと言えば、私の所為だ」
仁科は改めて、真島の麗しい佇まいに熱っぽい息を吐き出した。
この存在が本当に自分の物になるのかと思うと、年甲斐も無く心が高鳴る。
「本当に・・・、君のすばらしさは、形容し難いほどだな・・・」
仁科はゆっくりと左手を上げて、真島のうなじに指を沿わせた。
小さく体を震わせて、それでも黙っている真島の反応を見ながら、襟足の先まで指を潜らせる。

「正直、女も男も好きに選ぶだけの関係だった。だが君には・・・いとも簡単に惚れさせられてしまった」
中まで入り込ませた指の間で、仁科は真島の髪を梳いていく。
仁科は知らずに口元を綻ばせていた。
【本物の愛】などという戯言も、真島が相手ならば悪くないとさえ思えてしまう。
甲斐と変わらないほどに、仁科もまた真島に心酔してしまっているのだ。

しかし、そんな仁科の考えを真っ向から否定するように真島が静かに言葉を発する。
「あなたは・・・俺に惚れているわけじゃない」
部屋の奥、見事な庭園を写す大きなガラス戸のほうを見ながら、真島は疲れたように息を吐き出した。
仁科は指の間で真島の髪の感触を愉しみながら、小さく笑う。

「本人が惚れていると言っているのに、否定するのか?そこまで嫌われたか」
真島の言葉は気にも留めない様子で、仁科は愉快そうに真島の横顔を見つめた。
「事実を言っているんですよ。あなたのは愛情じゃない。ただの・・・執着だ」
真島はネクタイの首元を僅かに緩めて、ボタンを1つはずした。
小さくため息をついて、タバコを1本取り出す。

それを見た仁科がさッと体を起こして、ライターを差し出した。
顔を寄せた真島の瞳に、ゆらゆら揺れる灯が映りこむ。

「あなたと目を合わせていても、俺は何も感じない」
気怠げに煙を吐き出すその仕草1つでも、真島は仁科を虜にする。
「見つめ合って、喉が枯れるまで心で愛を語り合いたいタイプなのか?意外だな」
真島の鋭角な顎のラインを指でなぞりながら、仁科は真島を落としに掛かった。

「あなたが本当に俺に本気なら、こんな風に話なんてできませんよ」
真島はゆっくりと仁科を振り返って、艶っぽい笑みを見せた。
仁科の手管など物の数ほどでも無いというように、しっとりと細めた官能的な視線を惜しげもなく浴びせかける。

ゆっくりとタバコを口元へ運んで、思わせぶりに煙を吐き出して、真島はまた口角を上げて微笑んで見せた。

「・・・ほう?」
一気に喉の渇きを覚えた仁科は、ゴクリと音を鳴らして唾を飲み込んだ。
妖艶なオーラを放ち始めた真島の色香に、仁科の脳は甘やかに掻き乱された。
仁科の方が一方的に真島に気があるだけに、こういう状況では仁科のほうが分が悪い。

「・・・おもしろい」
しかし、これまでにない心躍る経験に、仁科は快い震えに襲われた。
自らの全てを出し尽くしても、真島という男は手に入るかどうか分からない。
その所作1つで仁科の思考を狂わせることができる真島に、翻弄されて終わるだけかもしれないのだ。

「いい夜になりそうだ」
手の甲で真島の頬を静かに撫でて、仁科はまだ見ぬ真島の媚態に思いを巡らせていた。

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Posted at 2010.03.15 (21:43) by () | [編集]
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Posted at 2010.03.16 (08:06) by () | [編集]
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Posted at 2010.03.21 (08:40) by () | [編集]
Re: おかえりなさい(^O^)
コメありがとうございます、冬実でございます。
近況、ガタガタでございまして、それはまた、お話がひと段落してから皆様へご報告しようかと思っています。時間掛かっておりますが、必ず書き上げます(苦笑)それだけはご安心を。
Posted at 2010.03.22 (02:16) by 冬実 (URL) | [編集]
Re: お久しぶりです。
コメントありがとうございます、冬実でございます。
いつもいつも温かいお言葉ありがとうございます。時間かかっておりますが、必ず書き上げるつもりです。思い出して頂いた折に、またふらりとお立ち寄りくださいませ。
Posted at 2010.03.22 (02:18) by 冬実 (URL) | [編集]
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