今夜、資料室で-16-

ロビーへ続く廊下の最後の角を曲がろうとした時、真島の腕が後ろから思い切り引っ張られた。
「ちょっ・・・、 何するんですかっ」
見なくてもそれが甲斐なのは分かりきった事で、真島は掴まれた腕を取り戻そうと何度も振り回した。
「俺は帰るんです」
それでも腕を掴んでいる甲斐の力は強くて、まるで大人にじゃれ付く子供のようにしか見えない。
片手で楽に真島の腕を拘束している甲斐が ますますおもしろくなくて、真島は思わず声を上げた。
「・・・離せって!」
「こんな所を人に見られたいのかっ」
甲斐は真島の腕をぐいっと引き寄せて、頭の上の方から、低く圧力のある声を掛けて真島を制止させる。
「・・・離せっ・・・よ!」
その声に少しだけ怯みながらも、真島は体を思い切り捩って抵抗した。

今度こそ、本当に自分の事が許せなくなってしまう。
自分の事を嫌うだけで済めばいい。
あんな、 誰かが血を流して罵り合いながら手を拳を上げる場面など、もう二度と見たくはなかった。
今ならまだ、それを止められる・・・ この甲斐を、そんな事に巻き込まないで済む。

「・・・帰るって・・・言ってるんだ!」

「騒ぐな・・・っ」
下腹の底から沸いたような、少し潰れた迫力のある声に、真島の動きがぴたりと止まった。
甲斐から漂う怖いほどの覇気に、一瞬 足が竦んだのだ。
その隙を逃がさず、甲斐はそのまま真島の腕を引っ張って資料室まで引き返して行った。

引きずられるようにしながら資料室に着くまで、真島は甲斐に声が掛けられなかった。
決して顔は見られないのに、しっかりと目を合わせた事は一度もないのに、甲斐の表情が分かる気がしたのだ。
怒っているわけではない。
自分よりもずっと 辛そうな顔をしている気が、してしまった・・・。


やがて2人は資料室に着いて、
後ろ手に鍵を閉めた甲斐は、真島を連れたまま崩れ落ちるように ソファーに腰を下ろした。

その手を振り解こうとして 口を開けそうになった真島から 目を逸らしながら、
甲斐は真島の体を引き寄せて・・・ 抱きしめた。

「何だよっ・・・」
そんな事をされると思っていなかった真島は、咄嗟に 甲斐を突き放そうとした。
「何するんだよっ・・・」
けれど、背に回された甲斐の腕は 解こうにも解けずに、もがけばもがくほど 力を込められる。
「離せってっ・・・」
それでも真島は何度も体を捻りながら 甲斐との間に隙間を作ろうと必死になった。
なのに、そうしてやっと出来た隙間もその度に、すぐに甲斐の腕に抱き寄せられて 埋められてしまう。
「離せって言ってるだろうっ・・・」
甲斐の大きめの肩に力一杯掴み掛かって どうにか押し退けようとして、今度は倍の力で引き戻される。
「何でっ・・・」
それならと 甲斐の背中に手を回して上着を引っ張り上げてみても、びくともしない。
「何っ、なんだよ・・・」
そうやって 何度も引き離しては抱き寄せられ、隙間を埋められながら抵抗していると 体力も消耗して、
とうとう真島は 力で抵抗することをあきらめた。

「俺は・・・帰るんです」
真島は 甲斐の肩を両手で掴んで僅かに身を引きながら、頭に上った血流を少しずつ下ろしていった。
「離してもらえませんか」
事務的に伝えながら、甲斐を牽制する。
「迷惑なんですよ」
自分の意思を伝えようと、真島は至って単調な声で繰り返した。
「どういうつもりですか」
しかし何を言っても甲斐は黙ったままで、ただ力を込めて 体を抱き返してくるだけ。
「いい加減にしてくれませんか」
そんな甲斐に真島は呆れ始めて・・・ 疲れた溜め息を小さく漏らした。

「・・・こんな事して・・・一体どういうつもりなんですか」
精神的にも肉体的にも大きな疲労を感じて、真島の体の力からも無用な力が抜けていった。



そしてそれを感じた甲斐の腕からも少しだけ力が抜けて、それまで黙っていた口から聞こえた言葉に
衝撃を受ける。

「君は私が・・・ 君の友人と同じだと、思っているんじゃないのか」
「・・・え」
甲斐は、明らかに10年前の事を言っている。
まさかそこまで考え及んでいるとは、真島も思ってはいなかった。

「君は自分の事を 『争いの種』 だと言った」
耳の奥まで届く 甲斐の深く落ち着いた声は、尖っていた真島の心の先端を まろやかに包み込んでいった。
合わせた胸から僅かに感じる 規則正しい甲斐の鼓動が、その言葉を助けるように 穏やかな振動を伝えてくる。

「今度は私が、そうなるかもしれないと・・・ 思っているんだろう・・・?」
自分への苛立ちで跳ねっ返っている真島の気持ちを宥めるように、甲斐の手が真島の背中を撫で上げては撫で下ろしていく。
「また 辛い思いをする事になるかもしれないと、思っている・・・」
もう何度安らぎを感じさせられたか分からない甲斐の腕の中は、まるで真綿のような柔らかさで真島の全てを受け止めた。

「・・・・・・それが、怖いんだろう?」

どんな嫌な部分も全て許されていると感じてしまう、とても優しくて温かい甲斐の腕の感触。
この資料室で何度も感じていた所為で、真島の体中に心地よく染み付いてしまっていた。
そして・・・
こんな どうしようもない自分の無防備な姿でも、全て晒してしまって良いのだと思わせるその腕を払い除ける理由など、
もう何も思いつかなかった・・・。

「ガキじゃないんだ。力で誰かをねじ伏せてどうこうするなど、ありはしない」
厚みのある声で説いて聞かせるように囁き掛ける甲斐に、真島は小さく首を振った。
「・・・・・・そういう問題じゃない・・・ あなただけの、問題じゃ・・・」
甲斐にそのつもりが無くても、そういう災難はあらぬ所から降りかかってしまう。
知らないうちにどこかで誰かが、自分勝手な妬みや独占欲を滾らせている。

「君がそうやって逃げていても、嫌な事を考える人間を全て排除できる訳ではないだろう?」
身を屈めて寄り添ってくるような甲斐の声に、なぜだか泣きたくなってくる。
「・・・それでも・・・そうするしか、無いんだよ」
真島は両手で拳を作って甲斐の肩に押し当てた。
そんな嫌な連鎖を未然に防ぐには、自分とは 何の繋がりも持たないで いてもらうしかない。
「ならそれが・・・ いつか全て、無くなるのか・・・?」
・・・・・・無くならない。
もう10年も経った今でも、前と少しも変わっていない・・・。
どこへ行っても何をやっても、周りの誰かを傷つける。
「無くならなくても・・・ もうあんな事は、嫌なんだ・・・」
逃げても逃げても、いつもどこかで、争いの種になってしまう。
でも もう絶対に、二度と同じ思いは したくない。
それが甲斐なら、尚更・・・・。

「だったら 私で最後にすればいい」
抱きしめられていた腕が急に解かれて、2人の間で暖められていた空気が 消えていく。
甲斐は、肩に押し付けられていた真島の拳を取ってほぐして、そのまま重ね合わせて 握り締めた。

目を合わせられない2人は僅かに顔を伏せて、両手を重ね合わせて向かい合った。

「そんな事では 君を諦める理由にはならない・・・」
切なく枯れた甲斐の声が、真島の耳元を甘やかに掠めていった。
「その程度で・・・ 8年も待てると思うのか・・・?」
甲斐の右手は手探りで真島の頬を探し当てる。
「・・・こんなどうしようもない奴なんて・・・面倒なだけでしょう」
「言ったじゃないか。私は君の世話を焼くのが好きなんだ」
僅かに笑みを滲ませた甲斐の声が、真島の背中をトンと押した。
「・・・あなた、だけは・・・ あんな事には・・・」
すっかり甲斐に占められてしまっている心を、もう偽る事はできなかった・・・。

初めて目を合わせて気を失った時、誰とも違うその視線に畏れさえ感じていた。
それは余りにも真っ直ぐで強すぎる、甲斐の思いそのものだったのだ。
そしてそれをいつも近くで感じさせられて、
真島の心はいつの間にか甲斐を拠り所にしてしまっていた。

「君が誰も選ばないでいるから、そうなる・・・。私で最後に したらいい・・・」
甲斐の左手も離れていって両側から頬を挟まれる。
その温かくて優しい感触に、真島の心も溶かされていった。
「・・・絶対に・・・あんな事にはならないと、 絶対に無事でいると、約束してください・・・」
それを真島が告げた瞬間、甲斐の気配が一段と柔らかく真島の体を包み込んだ。
「・・・分かっている。約束だ」
そう言って、甲斐は真島の顔を引き寄せて額を合わせた。

「側に居ても、良いだろう・・・?」
額を合わせたまま甘えるように言う甲斐に、真島は小さく頷いた。
熱を持ち始めた吐息を吹きかけながら、甲斐は真島の額に唇を押し当てる。
「君の恋人に、なりたい・・・」
その柔らかい感触を追いながら、真島はもう一度頷いた。
「目を開いて私を見る君の顔が見れたら・・・ どんなに良いだろう・・・・・・」
真島の額に唇を触れさせたまま、甲斐は夢見るように囁いた。
「目は合わせられなくても・・・ キスは、できる・・・」
頬に添えられた手に顔が上げられるのを感じて、真島は静かに目を閉じた。
「本当に君は・・・ 奇麗だ・・・・・・」
囁きと同時に甲斐の唇が触れて、真島は腕を伸ばして甲斐の背中を抱きしめた。

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