星空に触れて-1-

2ヶ月前に大学4年生になったばかりの槙村上総は、バイト先であるカフェ「フロート」で慌しく働いていた。
大学と自宅の中間にあるこの店は、渋い海老茶色をしたレンガの外壁に蔦の葉がこってりと這わされた、今ではちょっと珍しい趣のある造りをしている。
上り坂の中ほどにあって、大きな通りから身を隠すようにして佇んでいるこの店を、上総はとても気に入っている。

コーヒーに入れ込んだマスターが20年前に始めたこの店には、無類のコーヒー好きがどこからともなく通っていて、年齢層の高い常連客によってしっとりとした雰囲気に包まれている。
カウンターに10席、テーブルで20席が用意されているが、全てが埋まってしまうようなことは、上総が知る限りこれまで一度もない。
床とカウンターは、時間を掛けてじっくりと熟成された茶褐色の木目が鈍く光り、壁は外観よりも少し淡いレンガが施されていて、色や材質がセンス良くまとめられている。


食事のメニューが無いのが大きな特徴ではあるが、午後3時から4時までの1時間だけは自家製のメイプル・ワッフルを注文することができる。
もともとマスターのきまぐれから発案されたものだったが、殊のほか人気になってしまったことがきっかけで、そのままメニューに定着してしまった。
それでもメニューの欄には追加されず、知る者の間でだけで密かに流行している裏メニューである。


上総はいつものように大学へ行ったが、この日は午後の講義が思いがけず休講になってしまい、ぶらぶらと街を歩き回った後でそのままフロートへ向かったのだ。

「悪いな、槙ちゃん。今日はワッフルがやけに出て、まいってたんだ。」

マスターの黒田がきりりとした目元を少し和らげて、上総の後ろを通り過ぎた。
裏メニューであるメイプル・ワッフルは偶然の産物ではあったが、これでなかなか手間のかかるメニューらしく、他の注文と重なるとやっかいな代物なのである。

「いえ、僕もいきなり休講になったんですし。ちょうど良かったです。」
下げてきたカップをシンクへ下ろしながら、マスターに笑顔を返す。

星空に触れて-2-

上総よりも顔1つほど背の高いマスターは『恩にきるよ』と口元だけで笑顔を返しながら、新しいワッフルを焼きにかかっている。

最初は月曜日から木曜日の午後で時間の都合が良い時だけ、という約束だったが、まじめな働きぶりに加えてマスターや馴染みの客との相性がとても良かったこともあり、そのうちに時間さえよければいつでも来てくれ、とマスターのほうから申し出があった。
おかげで、起きている時間の多くをこの店で過ごすことになり、大学に入学した当初からずっと通い続けているこの店は、上総にとって特別な存在になっている。

元々はマスターの黒田が夫婦でやっていたのだが、上総がバイトを始める半年ほどまえに妻が他界してしまい、一人ではどうにも回らなくなってしまった為に上総を採用することになったのだそうだ。

マスターの黒田はがっしりと鍛えられた体躯をしていて、短髪と少しだけ白髪の混じった顎の髭がとても良く似合っており、どっしりと腰の座った性格が黒田の全体からにじみ出ているようだ。
何も話をしていない時は近寄り難いように感じられることが多いが黒田だが、4年近くの付き合いで気心の知れている上総に対しては、頭1つ上の方からよく笑顔を見せる一面がある。

それとは対照的な上総は、虫も殺さない人の良さそうな顔と、細くも太くもない至って普通の体つきをしていて、全体的にほんわりと柔らかい雰囲気が漂う、おっとりとした性格である。

「あ、今日は雨が降りそうだからかな。前にワッフルがたくさん出て忙しかったときも、雨が降ってちょっと寒かったですよね」
上総はカップとスプーンを洗う手を動かしながら背中のほうに声を掛けた。ふた月ほど前にも、今日のようにワッフルが盛況で慌しかった日があったのを思い出した。

「そういやぁそんな感じだった気がするな。雨かぁ」
黒田のほうもワッフルから目を逸らさずに、声だけで上総に応じる。

「今日みたいに寒い時もそうですけど、気分が沈んだ時とか、何となく寂しい時とか、そういう時、みんながメイプル・ワッフルをつい食べたくなるの、何となく分かる気がします」
上総は乾燥機のスイッチを入れながら言った。

上総も以前、一度だけメイプル・ワッフルを食べたことがあった。
口に入れるとほんのりと温かく、メイプルシロップとバターがこんがり焼かれた甘く香ばしい匂いが口の中いっぱいに広がり、食べ終わる頃には何だかとても優しい気分にさせられた。
それはまるで、弱くなってしまった人間の心をそっと包んでくれる柔らかい羽毛のような気がすると、それ以来ずっと思っていた。

星空に触れて-3-

「そうか、なるほど。そういやこいつ、槙ちゃんそっくりだ。」
ニヤリ、と笑った黒田が顔だけ上総に向けて、焼き上がりの近いワッフルを指差しながら言った。

「え?僕ですか?」
意味が良く分からない、と、気の抜けた表情で上総が黒田を振り返ると、向かいのカウンターから声がする。

「そうそう、槙ちゃんとワッフルは本当によく似ているよ。」
カウンターの右端から4つめにいつも腰掛けている、常連の通称『ハンチングさん』である。いつもハンチング帽を被っていて、黒田ともよく話をするほどの顔なじみだ。

「僕、そんなこんがりしてないですよね…。」
どうしてだろう?と上総が視線を宙に巡らせていると、ハンチングさんがクスリ、と笑った。

「あー。笑いましたね?教えてくださいよ、どこか似ていますか?」
上総も少しだけ笑いながらハンチングさんに目線を向けると、今度はハンチングさんの隣に座っていた、こちらは通称『ポールさん』から答えがくる。

「槙村君の存在そのものがワッフルのようだ、ということでしょうなぁ。」
その風貌に合った優しい語り口でポールさんがにっこりと笑いかける。いつもアスコット・タイにジャケット姿で身奇麗な格好をしていて、ステッキを持ち歩いている様子が英国紳士のようだから、という安易な理由で、ありがちな『ポール』が採用されている。見た目では60歳くらいだろうか。

「存在が、ですかぁ…。」
うーん、と唸りながら上総は黒田の手元のワッフルに体ごと向き直る。

「温かくて、優しそうで。槙村君からは、見ている者の心にじんと染み渡る、柔らかい春の日差しのようなオーラがいつも伝わってきますからね。弱った心には槙村君が一番効きそうです。」
『嘘ではありませんよ』 と念を押しているような とびきりの笑顔をこちらに向けた後で、ポールさんは黒田に声を掛ける。

「そうでしょう、マスター?」
声を掛けられた黒田は、またニヤリと一瞬だけ格好のいい笑顔を作って上総を振り返った。

「確かに。よし、4つ上がり。槙ちゃん、頼む。」
ちょうど今焼きあがったワッフルはもう皿に盛り付けられていて、手元にあった伝票の控えが上総に渡される。

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